映画『大日本人』のどこが残念なのか
Posted at 07/06/14 PermaLink»
松本人志監督の映画『大日本人』について、ネット上ではいろんな感想が出ていますが。私が個人的に納得させられたのは次の2つ。
両者とも、この作品の映画としての技術面、演出面での問題点を見事に指摘している。そう、後出しジャンケンみたいになるけれど、私も見たときに同じような違和感を持った。これ、つくりがおかしいよなあ、と。わざとそうしている部分も多少あるんだろうけど、私が違和感を抱いた部分の大半は、松本のまわりの人間がフォローしておくべき事柄だったようにも思う。
松本人志のインタビューでの発言から推測する限り、たぶん彼は本作品で初めて映像の演出や編集の現場に立ちあい、自分で指示を出すという経験をしたのだろう。今までの『頭頭』や『ごっつ』や『ビジュアルバム』では、そういった部分は専門のディレクターや編集マンが受け持っていたのだと思われる。だからこそ、作品の細部にブレがなく、松本がやりたいことがそのまま素直に実現できていたのだろう。
個別の要素に関して、アイデアがおもしろいとか、こういうところにこだわるのは松本らしくていいなあ、と思えるような部分はいくつもある。だが、それらがまとまって有機的に機能して一本の映画として成立している、という気がしなかった。それはたぶん、松本のまわりの人間のフォローが甘かったということだろう。松本の発想のおもしろさを生かすには、持ち場を与えられた周囲の人間が自分の責任できっちり演出や編集の仕事を果たす必要がある。それができていないように見えるのは本作品の致命的な欠陥だ。非常に単純な意味で、『ごっつ』や『ビジュアルバム』のコントと比べて映像作品としての完成度が低いのは間違いない。
個人的には、別に慣れない仕事を無理矢理松本にやらせなくてもよかったんじゃないの、と思う。『ごっつええ感じ』のコントだって、何もかも松本がやってるはずはないんだから。カット割りも演出も編集もそれぞれ専門の現場の人間がやっていたに決まっているわけで。そのスタイルで、映画の専門のスタッフがきっちり自分の仕事をすべきだったんじゃないの。
稀代のお笑い芸人の監督デビュー作品が、妙に冴えている部分と妙にぼんやりとした部分が混在する、こんなアンバランスなおかしな映画に仕上がってしまったのは本当に残念。